なまえの国

『なまえの国』

 その国に到着すると、誰もかれもが地面に鼻の先がくっつくんじゃないかというほど顔を近づけて、必死に何かを探している。セタは不思議に思った。あれはいったいどういうことだろう。だって、地面にはなんにも落ちてやしないじゃないか。


「あのう、すみません」


 顔を地面にこすりつけながら瓶底眼鏡で他の人よりもさらに一層懸命に何かを探している青年に、セタは話しかけた。途端に、青年はものすごい剣幕でセタの歩いた場所から何かを拾い上げた。


「ふざけるんじゃないよ、そんな風に土足で入ってこられたんじゃこちらとしてもいい迷惑というものだ」
「いったいどうされたんです、そんなに必死んなって。何が落ちてるっていうんです」


 青年はずり落ちた眼鏡をあげるでもなく、さらに深くかがみこむ。


「なまえだよ」
「はあ」
「他にいったい何を探すっていうんだね」
「いや、まあ、人生の目的とかそういうものでしょうか」
「馬鹿なことをお言いでない。人生なんてのはね、いいかい、なまえがあって初めて成立するもんなんだ。名もない人間の人生なんて、存在した試しがないじゃないか」
「それで、あなたもなまえを探している」
「当たり前さ。他にいったい何を探すっていうんだ」
「いや、まあ、はあ」


 セタは特に何かを探さなければならないという気持ちになったことがない。


「それじゃ、あなたにはなまえがないんですかね」
「君は馬鹿か。なまえはあるに決まっているだろう。今よりいいなまえを探すんだよ。今よりずっとお金もちで生活に困らないだけの余裕があるなまえをさ」
「あなたは生活に困っている」
「なまえを探す人間が、困っていないわけがない。君はほんとうにものを知らないな。あっ」


 青年はそう言うと、ふたたびセタの足元を探った。


「言わないことではない。君はいろんななまえを犠牲にしすぎるな。もうここからは出ていったほうがいいぞ。さしあたって、君には必要ななまえというものがないらしいからな。それに僕は忙しいのだ。君の相手をしているひまなんぞない。さあ、いった、いった」


 結局セタは、青年の名も知らぬままその国を出ることになった。遠くからその国を眺めると、こんもりと霞がかってまるでその国だけ雲の中にあるようだった。
 なまえというのはそんなに大事なものなのだろうか。セタは、これまで自分が犠牲にしてきたなまえについて考えてみようとしたが、セタは生まれたときからセタであったので、それ以外のなまえというものについて思いを馳せることさえできなかった。