ゆらぎの国

【ゆらぎの国】


 その国では、すべてがバランスを保っている。ひとつの動きが、他の動きに影響を与え、ひとつの思想が、他の思想に影響を与え、最終的に丸く収まるように調整されている。


「われわれの国ではね」


 国民の一人が、セタに説明して言った。彼らはコンパスのような脚とやじろべえのような腕を持ち、耐えずゆらめきながらバランスを取る。このコンパスもまた、話しながら常にどこかしら揺れている。


「あらゆるものが相互に関連しあっています。私の動きは、私だけのものではありません。私の指の動き、瞬きひとつ、すべてが他の誰かの動作や思想に影響を与え与えられています」


 そういいながら、その人物は右腕をセタのほうへ差し出した。


「失礼。これは私の意思とは関係がないことです。後ろをご覧ください。あそこに立っている女性が誰かに道を尋ねている。そのせいで、私の腕が動いたのです」


 セタが振り返ると、交差点で女性と思しきコンパスが、別の女性と思しきコンパスとしきりに何かを取り交わしている。二人は耐えず揺らめき、触れそうで触れない動きを繰り返した。


「ことほどさように、私たちの行動は、私たちの意思のみで決定されているわけではありません。私たちは全体でひとつの大きなバランスを保つようになっているわけです」


 それならば、バランスの中心のようなものはないのだろうか、と尋ねてみる。


「ある意味で」


 コンパスが左に大きく傾いた。


「中心は私であり、中心はどこにもない。誰もが中心であり得、誰も中心ではない」


 よくわからないな、とセタはつぶやいた。


「この国では、すべてが均衡を保つために、そしてそれだけのために存在しています。余計なものはなく、必要なものしかありません。私たちは耐えず揺らぎ、傾き、元に戻り、再び揺らめきます。誰もが誰かに影響を与え、与えられています。私の意思は確かにここにあるものですが、かといって、私の意思がすべてを決定できるわけではありません。それゆえ、私は中心ではありますが、同時に、中心ではない」


 僕も、君たちのバランスの中にいるのだろうか。それとも、ただの部外者なのだろうか。


「あなたの動きも思想も、私たちとは何の関係もありません」


 コンパスはきっぱりと言い放った。


「私たちは私たちだけで完結しております。あなたは必要でも不可欠でもありません。ただ」


 そのとき、唐突に風がやみ、コンパスはゆっくりと揺らめきの速度を落としていった。


「ほら、こういうことがあります。揺らぎはときどき、完全な均衡状態に陥ることがある。そうなると私たちは一瞬ですが、完全に」


 言葉は途切れ、コンパスは静止した。セタは静止したコンパスの周囲をぐるりと見回す。見えるところにあるすべてのコンパスが、静止していた。なんとなく、ため息がつきたくなった。それはもしかするとほんの一瞬だったのかもしれないし、かなり長い時間だったのかもしれない。セタは瞬きを何度かしたような気がするが、一回もしなかった気もする。比べるものがないとき、時間というのは消えてしまうものなのだとセタは初めて気付いた。気付いたころには、その国のバランスは再び動き出していた。


「静止することがあります」


 再び話し始めたコンパスには、揺らぎが戻っている。


「その時、たまたま存在していた部外者は、ある意味でバランスの中心にいると言えるかもしれませんね。その部外者の影響によって揺らぎは再び開始されるからです」

 
 セタの体がゆっくりと揺らめいている。


「人間は本来、バランスを取るために耐えず体を揺り動かしています。瞳も、皮膚も、内臓も、常に動いています。そして、その動きは、さきほどのような均衡状態においては、私たちにも少なからず影響を与えます。ですから今や、あなたの動きも私たちに影響を与えるものとなっているのです」


 だが、僕は部外者だとさっきあなたは言った。


「静止の場面に立ち会ったものは、すでに部外者とは言えません。あの瞬間から、あなたは私たちのバランスの一端を担う存在となったのですから。ほら、ご覧なさい。あなたの動きはもうすでにあなたの意思だけでは完結していませんよ。私たちは、今や相互に影響を与えあっている」


 コンパスの向こう側に、男性と思しきコンパスが、知り合いと思しきコンパスと話し合っているのが見える。セタは、自分の腕がゆっくりとその光景を指差すのを、自らの視界の端でとらえた。その横で、コンパスの両足がゆっくりと円を描き始めた。